top of page

ESSEY

いとなみのはじまり

松本直大 ファッション・ショー ―「Only Body」に寄せて―

村上はつみ

 4人の男女が、歩き、止まる。

松本直大による“ファッション・ショー”「OnlyBody」は、観客が見守るなか粛々と進行してゆく。モデルは女性3名男性1名、無駄のないしなやかな身体を覆う彼らの私服は既に序盤で脱ぎ捨てられ、上下黒のインナーを身につけた姿で彼らは音も立てずに室内を移動する。 上演前半で流されていた断続的な生活音のミックスはいつの間にか途絶え、緊張した空気の中で彼らは床に打ち敷かれた松本のこれまでの作品である黒い衣装を手にとる。

 

「Only Body」で提示されるのは「服を着るという行為そのものへの疑問であると松本は述べる。被服と身体の関係性についての問いかけをストレートに、かつ詩情豊かに観客に投げかけることにこの作品は成功している。そして、全編とおして作品全体に通奏低音の様に漂い続ける品位は極めて質の高いものであり、その強度は松本のファッションに対する哲学により保証されているように感じた。

 

 それが顕著に表れているのは、一度全員が退場したのち頭部を黒い布で覆ったモデルが2人一組で登場するシーン、そして冒頭で述べたシーンの二カ所である。 前者のシーンでは、文字通り個人を覆おうとする被服と、隠しきれないモデル自身の個性とのせめぎ合いとが対比される。頭部を覆われた身体はある程度までの互換性を持つが、注意深モデルに目を向けることで、歩き方の特徴・重心の取り方など、明確な個性を見いだすことが可能である。プロのモデルでないからこそ表出する差異的要素は、本来ならば作品中のノイズになりかねない。しかしモデル達の個性は作品の世界観に受容され、松本の手により掬い上げられ再構成されている。  

 

 そして作品の最も印象的な場面、文章冒頭のモデル達が松本の衣装を着用するシーンに戻る。松本による被服作品は、「着る」よりも「纏う」といった表現が的確である様に思う。 身体は衣装のよりどころとなり、衣装は三次元に立ち上がった瞬間に身体の囁きに呼応し、最も美しい形でそれらを可視化しはじめる。

 実はこの部分を始め、一度目の上演と二度目の上演では数カ所、演出の変更がなされている。 初回では拾い上げ衣装を松本が順番に1人ずつモデルに着付ける演出であったが、次の回ではモデル達がそれぞれ着付け合う演出となった。初回を上演してみての検討をふまえての変更であるというが、結果としての試みは被服の根源的な役割へのアプローチとして成立することになっていると私は考える。人が衣服というものを初めて生み出したとき、被服の意識が生まれた瞬間の原風景が、そこには再現されているのだ。松本が着付けてモデル達に「与える」もの(=衣服)であった図式が変更によって除かれ、よりシンプルに、「自分達のことを自分達でする」という集団の完結性が提示される。』つまりこれは作者の手を離れたところで、衣装を中心とした新しい営みが始まったことを示唆しているとも言えるのだ。  

 更にそれを象徴的にあらわすのが、もう一つの演出の変更点である、モデル達による会場の消灯だ。二度目の上演では、上演の最初自分達の手でつけた照明をきちんと全て消してから退場する(一度目の上演では消灯せずに退場)。ここの、作品の世界に対すモデル達の自主決定権の所持、意思の現れを読み取ることが出来る。

 

 ファッションという文化が生まれた瞬間を切り取ることに成功した今作は、更なる飛躍を見せる可能性を覆いに孕んでいる。

bottom of page